前川國男


私の前川國男への関心は、1994年に日本へ調査旅行に行ったときに、偶然、芽生えたものです。その年の夏、ユーロパリア日本記念奨学金により、私は日本を訪れ、日本の近代建築について調査報告書を書くことになりました。もちろん、丹下健三や、坂倉順三、吉阪隆正、等の建築家の名前はなじみあるものでしたが、どういうわけか、前川國男については聞いたことがありませんでした。私はその調査旅行の道中、日本には、ほとんど忘れ去られかけているような建築の中にも、注目すべき、珠玉のような名作がまだたくさんあることを知りました。その中でも、今から思うとそれは偶然の産物としか言いようがないのですが、ある一連の建築作品にひどく感銘を受けることが続いたのです。具体的に言えば、岡山県庁舎、京都会館、そして、東京文化会館。とりわけ東京文化会館には、本当に、この素晴らしい建築を設計したのは誰なのだろうと思いました。そして、これらの作品群について調べてみると、必ず、ある建築家の名前が浮かび上がってくる。それが、前川國男だったのです。この調査旅行の途中、私は東京の小さな書店で、出版から5年ほどたった、2冊の前川國男作品集を見つけました。ものすごく分厚で、重い本。少し迷ったのですが、結局、買うことにしました。後悔したくなかったからです。そして、本を広げてみると、そこには私が出会い、心を奮わせた、あの建築作品の数々が紹介されていました。そのような出会いから始まり、さらに多くの前川作品を訪れた結果、私は、前川國男の建築作品が優れて日本的であるという結論に至ったのです。ある日、こんなことがありました。ひとりの日本人建築家と東京文化会館を訪れた時のことです。私が、この建物はすごく日本的ですねというと、その建築家はびっくりして、これはどう見ても西洋的だよと反論しました。この経験が今から思うと、私の前川國男研究の出発点になりました。以来、私は、西欧の近代建築思想と、日本の空間の特性が、どのようなプロセスを経て、前川國男の中で融合されていったかを解き明かすことに、強い関心を抱くようになったのです。

もちろん日本では前川の名前は知られていました。しかし、西欧では前川のことはそれほど知られていません。第二次世界大戦前は確かに前川は日本の建築界を代表するヒーローでした。しかし戦後になると、前川ではなく、丹下健三が日本の建築界のリーダーとなり、国際的にも認められるようになったのです。そうした中で、丹下の師でもある前川は、ただ黙々と自らの建築を追い求めていました。しかも、私は前川國男のデザイン手法を研究した結果、次のことに気づきました。ひとつは、前川が日本の伝統的な建築のもつ「清らかさ」を自分なりに租借することを重要視していたこと。もうひつは、前川國男がすでに1930年代から日本におけるモダニズムのあり方を探求していたことです。日本の近代建築への道は前川國男によって築かれたといっても過言ではないでしょう。


20世紀初頭から急激に近代化が進んだ日本では、近代的な国家としての日本にふさわしい建築表現が求められました。しかし、その一方、もともとの日本に備わっている「日本らしさ」を失わないための努力も続けらていたことは、注目すべき点です。日本は250年にも渡る鎖国を経て、封建制を廃止し、ひたすら近代化への道を進まなければなりませんでした。そのため、19世紀の後四半世紀にはまだ残っていた日本独自の伝統を大切に守るゆとりがなかったとしても当然でしょう。第1次世界大戦の直後のことですが、日本の建築家たちの間で、あたかも木に竹を接ぐように取り入れられてきた西洋文明に対する不安のような感情が芽生えたことがあります。このままでは日本らしさや日本独自の伝統が消えてしまうのではないだろうかと。

日本はその独自の伝統にどうすれば回帰できるのか。いうまでもなく今さら封建制度に戻ることはできません。では、伝統という名に値する「日本らしさ」とは何だろうか?しかも、世界に対して堂々と新生日本を誇れるような力を備えている、そういう「日本らしさ」を造りだすことができるのだろうか?アジアやヨーロッパの様式を参考にしながら、日本にふさわしい様式を模索する多くの試みがなされました。その結果、日本の近代建築家たちは次のような考えに至ったのです。日本に古来からある様式は、西欧のモダニズムや近代建築の様式と融合することができるのではないか。というのは、これらの間には、なにがしかの共通点があるからです。前川國男の建築作品には、まさに、日本と西洋との間に生まれた、こうした融合のプロセスを辿ることができます。

前川は、1928年から1930年まで、ル・コルビュジェの初めての弟子のひとりとして、その下で働き、日本人として初めて西欧モダニズムの真骨頂を体得し、帰国しました。帰国した前川はアントニン・レイモンドの事務所の所員になります。レイモンドはチェコの建築家でしたが、レイモンド自身がモダニズムと伝統的建築との関係がいかにあるべきかを追求していました。そのため、前川も日本文化の古き良き伝統について考えざるを得なかったのです。これらの、つまり、ル・コルビュジェの下での修行時代と、レイモンド事務所での経験が、やがて、前川を自らの建築における独自性、つまり、日本におけるモダニズムへと導くことになるのです。


前川は、日本が20世紀を迎える上で、新しい近代的国家に生まれ変わらなければならないと考えていました。そのため、前川はまず、自らがル・コルビュジェから学んだ様々なモデルを、新しく生まれ変わろうとしている日本が建築における答えを見つけるための、有効な導き手として用いることを試みました。その一方で前川は、日本建築の伝統について問いかけを続けることで、日本らしさの本質とは何かを追い求めたのです。前川は新しい日本の建築にとってモダニズムが不可欠であると考えていましたが、同時にまた、日本に固有な空間の特性についてよく知り、よく理解することも、前川にとって欠くことができないものだったのです。

設計競技の応募案やスケッチによる執拗な探求を通じて、前川は日本において古来から受け継がれてきたものが何であるかを捉えようと必死に取り組みました。

そしてついに、前川は自分自身の方法論を築きあげたのです。その方法論においては、建築が人に与えるあらゆる影響について、それを伝統的なものとして解釈することもできるし、同時に、現代的なものと解釈することもできるような、そういう建築のあり方が目指されています。前川の建築は、調和と安らぎに満ちた豊かな空間と、比類なく優れたプロポーションを備えています。前川の建築作品は、近代的とか、伝統的とかといった分類を超越しています。そうした区分ではとても表わしきれない、独特な雰囲気を備えているというべきでしょう。むしろ、そうした前川の建築作品を通じて私たちが気づかされるのは、モダニズムのような外来の思想であっても、前川のように十分に吸収し、消化し、融合することによって、日本固有の文明に根づき、それを強固にするような独自の思想が導かれることもあり得るという事実なのです。

ヘラ・ヴァン・サン

(建築工学博士・ブルッセル自由大学)

1、5:東京文化会館

設計:前川國男設計(1961)



2、4:京都会館

設計:前川國男(1960)



3:岡山県庁舎

設計:前川國男(1958)

1:帝国議事堂

初期案(東京、1887)(実施されず)

設計:エンデ・ウント・ベックマン


2:法務省庁舎

側面外観(現庁舎では外観が変更されている)(東京・霞ヶ関、1895) 

設計:エンデ・ウント・ベックマン


3:平和記念東京博覧会記念塔

(東京・上野、1922)

設計:堀口捨己

1:桂離宮(17世紀)


2:桂離宮・書院(17世紀)

ル・コルビュジェのデザインの前川による変容

(作成:著者)

埼玉県立博物館 設計:前川國男(1971)

(撮影:小山 孝)

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