空間への希求


前川はこう述べています。「日本建築の伝統において、もし有用な特性があるとしたら、それは、日本独自の空間の捉え方にあるのではないだろうか」。(*1) こうした、日本的な空間へ向けられた前川の志向をどう理解したらよいのでしょうか?「日本独自の空間の捉え方」という言葉で前川は何を言おうとしているのでしょう?


ル・コルビュジェの事務所で働いていた当時から、前川は事務所の仕事とは関係なく、いろいろな設計競技に応募していました。1929年の名古屋市庁舎、あるいは、同じ1929年、クロアチアのザグレブにおける公共事務所ビルの設計競技などです。後者では、前川は事務所の同僚であった、アーネスト・ワイスマン、ノーマン・ライスとの連名で応募しました。ル・コルビュジェの建築思想にどっぷりと浸かっていた時期でもあり、こうした応募案はル・コルビュジェの建築作品によく似ています。つまり、ここではル・コルビュジェというフランス近代建築家の建築思想を「適用」したというより、「借用」したといってもいいでしょう。しかし、とにもかくにも、これが、建築家としての前川國男の出発点であったということができます。こうした時期を経て、西欧建築思想をモデルにした、前川独自の「適用」への試みが始まるのです。ル・コルビュジェは、建築における平面を重要視し、デザインの導き手と考えており、前川もル・コルビュジェの平面に対する考え方には深く共感を覚えていました。

『建築をめざして』(*2) という著作のなかで、ル・コルビュジェは次のように述べています。

「平面というものは内から外へ生ずるのだ。すなわち、外面は内面によって生まれる。建築の要素とは、光と陰であり、壁と空間である。そして、建築における秩序とは、目的に序列を与えることであり、あるいは、意図に階層を与えることである。」(*3)

「平面は基礎である。平面なしには、意図や表現の偉大さもなく、律動も立体も脈絡もない。平面なしには、人間にとってあの耐え切れない感じの、あのくずれた、貧しい、乱暴な、いい加減さがある。平面はもっとも活発な想像力を必要とする。それはまたもっとも厳正な規律を必要とする。平面は全体の決意である。それは決定的瞬間である。」(*4)(吉阪隆正・訳)

前川は建築の本質を、単に塊や固まりではなく、空間と見なしました。そのため、前川の仕事は、必ず平面と断面を考えることから始まりました。その追求なしに立面を描くことを、前川は許さなかったし、それも、矩計詳細の裏付けがなければなりませんでした。(*5) 平面を見ただけで、その空間が彷彿とされるような平面でなければ駄目だと、前川はスタッフに言ったそうです。(*6)


前川はその生涯を通して、ル・コルビュジェの建築思想を、自分自身のデザインの中に消化することを試み続けました。建築史家として、私はル・コルビュジェの建築思想を次のような五つの段階に整理しています。まずもっとも基本になるのは、ル・コルビュジェの建築思想の根源である「ドミノ」。そして、新建築の「5つの原則」。次に、ユニテ・ダビタシオンで展開された小宇宙。さらには、ロンシャン教会における彫刻的な表現。最後に、シャンディガールで試みられた都市的なスケールの展開。この五段階です。


ル・コルビュジェのこうした変遷に寄り添うように、前川は設計競技応募案を通じて、日本的なるものをどう表現すべきか追求してゆきました。前川は1931年の帝室博物館の設計競技の応募案において、コルビュジェ的なデザインの試みを開始しました。その応募案において、前川はモダニズムこそ、伝統的な日本を継承するものであると主張し、伝統的でありながらも、のびのびとした空間による近代的な平面を展開したのです。ただそこには、1943年の在盤谷日本文化会館設計競技案に見られるほどの、厳密な伝統的な表現はまだ追求されてはいませんでした。


建築デザインにおける真実へ向けられた前川の追及は、少しずつ、変容してゆきます。それの理由はいろいろ考えられます。前川がもともともっている資質によるのかもしれないし、あるいは、レイモンド事務所における5年の修行時代に養われたものによるのかもしれない。あるいはまた、モダニズムを単純に移植するようなやり方に反発を感じたからなのかもしれません。それとも、日本の伝統的な建築と西欧モダニズムに何かしら、通じ合うものがあることに前川が気づいていた、と考えることもできるでしょう。いずれにしても、前川の追及は、ゆっくりと、建築空間を主眼とした平面計画にふたたびその方向性をむけるようになるのです。

日本に固有な空間性が前川の身に浸透し、前川がそれに気づいてゆく過程で、前川はある独特な手法に行き着きます。それは、空間を重ねながら統合してゆくような方法で、その場合、空間は層状であったり、単位のようなものであたりするのですが、いずれにしても、内部空間の単位や、内外の空間の単位が連結され、相互に連なりながら、全体として、自由に流れるような空間を生み出すことを可能にする新しい手法でした。こうして前川はヒューマンスケール(人間の感覚に見合った)構造から生み出される空間の単位を連結させる、というイメージを駆使するようになりました。


この手法が初めて特徴的に現れたのは、1954年の神奈川県立音楽堂・図書館です。この作品において、前川は図書館と音楽堂というふたつの建物をずらして配置するという方法を見つけました。この配置により、コンサートホールには広々としたエントランスが生まれ、図書館には閑静な中庭が生まれ、なおかつこれらは、ひとつながりの空間の流れの中で互いに調和しています。これらの隣りあったふたつの空間、つまりひとつはコンサートホールのフォアイエ、もうひとつは図書館の閲覧室ですが、これらは互いに会話を交わしているかのようにさえ見えます。こうした、ふたつの建物をずらして配置する手法は、京都会館(1960)や東京文化会館(1961)にも見ることができます。

同様の手法は内部空間においても試みられていますが、より一層、巧妙かつ神妙なものとなっています。そこに前川が生み出す空間は、言いようのない美しさと静けさを湛えています。

トロント市庁舎のコンペでは、空間をかみ合わせてゆく概念が、単位となる空間を重ねながらずらすという方法で展開されたのですが、それは、江戸時代後期の日本建築に見られる「雁行配置」と通じるものがあります。前川は様々なデザインにおいて、空間の単位のさらに複雑な相互干渉、例えば、空間同士が互いに律動し合うようなことさえ、追求しました。こうした手法は、近代建築の発展に対する前川の取り組みにおいて、一層、深く、精緻に、研ぎ澄まされていったのです。

さて、1960年代になると、前川は次第に、近代建築の掲げる理想に対して、懐疑的になってゆきます。それは、近代建築がその本来もっていた人間性を失い始めていることに気づいたからです。前川は近代以降の社会の変りように失望しつつも、自らの作品を通じて、なんとかして近代建築が失いつつある人間性や建築本来の規律というべきものを取り戻そうと、試みました。そうした前川の新しい志向が結実したのが、1966年の埼玉会館であり、その少し後、1971年の埼玉県立博物館であり、1977年の熊本県立美術館です。


これらの作品で前川は、〈一筆書き〉という手法を展開しています。〈一筆書き〉というのは、あるひとつづきの筆の動きで書くことを意味する言葉ですが、ここでは、内部空間と外部空間をひとつながりの流れのなかで、ゆるやかに結びつけるような、空間のあり方の真髄を捉えるための手法を意味しています。前川は自らのこうした手法について、「平面の流動性」(*7) という言葉で表現しています。

「単純なラーメン構造ではなく、適正な大きさの単位空間が重なりながら鎖のようにつながっていき、完成すれば〈一筆書き〉で描けるようなプランの原理を発見しようと試みていく」(*8) と。


この手法によって生まれる建築の佇まいは、周囲の環境とも調和するものでした。内外の空間をひとつながりの筆遣いでつなげてゆく、〈一筆書き〉の手法により、前川は周囲の自然と結ばれた、平らかな内部空間を生み出すことを執拗に追求しました。とりわけ、上記の、埼玉県立博物館と熊本県立美術館においては、前川國男の日本的な美意識を読み取ることができるでしょう。これらの作品における空間構成には、日本の空間の特性が見事に表現されています。同時に建物へのアプローチの仕方にも、やはりきわめて日本的な特徴を指摘できます。来館者の動線をあえて屈折させることによって、あたかも遊歩道を散歩しているような気分にさせるのです。あるいは、別の言い方をすれば、前川の手法で試みられたのは、なにか決まったゴールを目指すような歩みではなく、建物に近づくその過程により重点をおくようなアプローチの仕方でした。この点については、前川は日本に深く根づいた伝統、すなわち、折れ曲がり、屈折しながら建物に近づく手法を参考にしているといえます。あるいは、この手法は、ル・コルビュジェの「建築的プロムナード」という考え方を想起させるものでもあります。

*1:パオロ・リアノ(編)『日本の現代建築』、133ページから(サンミケーレ教会中央編集局、フィレンツェ、1969)

*2:前川の師、岸田日出刀は1925年の外遊時、ル・コルビュジェの著作を数点、ヨーロッパから日本に持ち帰った

*3:ル・コルビュジェ(著)『建築をめざして』、20ページから(フラマリオン、パリ、1995)

(原著は、1923年にパリのエディション・クレ・エ・シェから出版された)

*4:脚注3と同書、35〜36ページから

1:ザグレブの公共庁舎

設計競技応募案

設計:前川國男、・アーネスト・ワイゼンマン、ノーマン・ライス


2:名古屋市庁舎

設計競技応募案 設計:前川國男

*5:鬼頭 梓によるエッセイ「建築家・前川國男の生涯」

(『建築家 前川國男の仕事』34~35ページから(美術出版デザインセンター、東京、2005-2006)

*6:脚注5と同書


1:東京帝室博物館

設計競技応募案 設計:前川國男


2:在盤谷日本文化会館

設計競技応募案 

(二等入選)(タイ、1943) 

設計:前川國男


1:スケッチ940

前川のスケッチブック(整理番号30)から

2:スケッチ410

前川のスケッチブック(整理番号25)から

3:スケッチ859

前川のスケッチブック(整理番号13)から

4:スケッチ405

前川のスケッチブック(整理番号25)から

5:スケッチ841

前川のスケッチブック(整理番号27)から

6:スケッチ916

前川のスケッチブック(整理番号29)から

7:スケッチ887

前川のスケッチブック(整理番号13)から

8:スケッチ805

前川のスケッチブック(整理番号1)から

9:スケッチ917

前川のスケッチブック(整理番号29)から



神奈川県立音楽堂・図書館(1954、

設計:前川國男)のスタディスケッチ


1:スケッチ1458

前川のスケッチブック(整理番号52)から

2:スケッチ1463

前川のスケッチブック(整理番号52)から

3:スケッチ1461

前川のスケッチブック(整理番号52)から

4:スケッチ1460

前川のスケッチブック(整理番号52)から

5:スケッチ1462

前川のスケッチブック(整理番号52)から

6:スケッチ1364

前川のスケッチブック(整理番号55)から

7:スケッチ1459

前川のスケッチブック(整理番号52)から



トロント市庁舎 設計競技応募案(1958

設計:前川國男)のスタディスケッチ


1:スケッチ127

前川のスケッチブック(整理番号10)から

2:スケッチ128

前川のスケッチブック(整理番号10)から

3:スケッチ63

前川のスケッチブック(整理番号7)から

4:スケッチ64

前川のスケッチブック(整理番号7)から

5:スケッチ61

前川のスケッチブック(整理番号7)から

6:スケッチ122

前川のスケッチブック(整理番号10)から

7:スケッチ62

前川のスケッチブック(整理番号7)から

8:スケッチ58

前川のスケッチブック(整理番号7)から

7:対談「国際性・風土性・国民性 現代建築の造型をめぐって」

(『国際建築』、1953年3月号、第20巻)における前川國男の発言から

8:松隈 洋によるコラム「プランの探求」(『建築家 前川國男の仕事』254ページから

美術出版デザインセンター、東京、2005-2006)

熊本県立美術館(熊本県、1977) 設計:前川國男

スケッチ710:前川のスケッチブック(整理番号18)から

熊本県立美術館内観(撮影:吉村行雄)

注:上記の訳文は特記なき場合をのぞき、『虹プロジェクト』坂田 泉により翻訳され、

同者がその内容の責任を負います

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